老画家・熊谷守一の自伝的映画には、芸術家の波乱万丈な生涯とシーンはなく、どちらか言うと淡々とした人間観察とユーモラスなスローライフが描かれていました。

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沖田修一監督山崎努樹木希林演じる老画家・熊谷守一私小説的映画モリのいる場所・・・この映画をもう見た?まだ見ていないの?

久々の投稿になりますが、6月に紹介する第一作は老画家・熊谷守一(山崎努)を主人公に、その妻・秀子(樹木希林)を囲む家の中、ほとんど30年間に縁側の一間と、季節の草木と蟻やトカゲなどの生きものが動く庭の生活を続けた夫婦のエピソードを描いたユーモラスなスローライフ映画『モリのいる場所』(2017年、沖田修一監督&脚本)でした。

芸術家の生きざま死にざまというのは、情念を創作のために燃え尽きた生涯、愛と女性と家族に揺れ動いた愛好憎悪の感情生活、時代と国家と体制に苛まれる矛盾と苦悩のドラマチックな一生がメインテーマとなりますが、いやそれらがないと芸術家の自伝的映画の価値がないかのように錯覚します。例えば、あのロシアの文豪トルストイが悪妻の代名詞のように言われる妻ソフィアから82歳の時に逃げだした家出を描いた自伝的映画『終着駅 トルストイ最後の旅』(2009年、マイケル・ホフマン監督)は、むしろ偉大な文豪ゆえに、何か人生の大問題・・・、却って滑稽な夫婦げんかにも思えました。例えば、バイオリニスト・デビッド・ギャレットがストラディバリウスの演奏と俳優を演じた19世紀イタリアの天才バイオリニスト・パガニーニの自伝的映画『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(2014年、バーナード・ローズ監督)は、超絶技巧のバイオリン演奏と、女性との放蕩磊落な私生活を送る音楽家の映画は、デビッド・ギャレットの演奏だけでも魅了されました。私などこの映画の後に彼のCDを2枚借りたほどでした。天真爛漫で卑猥で下品な冗談さえいう天才作曲家ウォルフガング・アマデウスモーツァルトの波乱万丈な自伝的音楽映画『アマデウス』(1984年、ミロス・フォアマン監督、ピーター・シェーファー 脚本)は、宮廷音楽家だったサリエリモーツァルトとの角逐が、よりモーツァルトの死の謎が深まった作品でした。
 
沖田修一監督の描いた私小説的映画『モリのいる場所』の老画家・熊谷守一には、そんな波乱万丈な生涯とシーンはなく、どちらか言うと淡々とした人間観察と情景が真骨頂のようです。実は私はこれまでの作品鑑賞歴を閲すると監督の作品のファンのようです。『モヒカン故郷に帰る』2016年、『横道世之介』2013年、『キツツキと雨』2012年、『南極料理人』2009年・・・等々を見ていました。
 
私が以前観賞した邦画で直ぐに思い浮べるのは、家を捨て重い障害を持つ子供さえ置き去りにして、放浪の旅に流れ、新劇女優と同棲する作家・壇一雄の自伝的小説を深作欣二監督が映画化した『火宅の人』(1986年、深作欣二監督&脚本)を観賞した後に、私は檀一雄の小説のファンになりました。また、小さな畳の部屋で夫婦二人が顔を近づけ、夫・トシの浮気を正面から責める精神の危機にいる妻・ミホの精神錯乱を描いた島尾敏雄の自伝的小説を映画化した『死の棘』(1990年、小栗康平監督)は、男女という夫婦の不思議な絆のドラマを皮膚で感じました。私はこの作家の小説にもまたこの映画をきっかけに虜になりました…。ここまで破天荒な私生活と自分の心情を曝け出す私小説作家が、日本にはいなくなったナ…。日本の文壇では私小説も作家も少なくなり、とうとう「絶滅危惧種」になったのだろうか、いやいや、映画にもなった車谷長吉私小説が原作になっている『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年、荒戸源次郎監督)があった…ナ、あの小説も壮絶であった…!!!

私の見解を述べれば、私小説作家が消えた理由は…、そうね、本を読む人間が少なくなり本が売れない時代とはいえ、むしろ爆発的にベストセラーになる作品と作家を探す出版社の文学賞が数多あり、チョット文才があれば原稿で生活できる時代となり、金の苦労をせずに原稿を書けばすぐ金になる良き時代なので、生活を犠牲にして小説を書く作家がいなくなったから…カナ。それと、漫画世代にとって小説の面白さ、私小説の暗さと深淵を倦厭するから…カナ。

是非皆さんのご意見が聞きたです。