大地の奥深く流れる生命の音…は、人体と意識の深層にミヤクミヤクと流れる食欲と性欲だろうか。

生野慈朗監督鈴木京香小泉今日子沢尻エリカ前田敦子広瀬アス山田優壇蜜シャーロット・ケイト・フォックス演じる食べる女・・・シネマ・コメンテータの流石埜魚水です。この映画をもう見た?まだ見ていないの?
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 今回アップする映画は、『食べる女(2018年、生野慈朗監督、筒井ともみ原作&脚本、『食べる女新潮文庫発行原作)でした。

映画の原作の傾向が少し変わったようだ。劇画・漫画が映画監督によって採用され、それを脚本家や映画監督自らが脚本と脚色をする荒唐無稽の時代劇や、人気アイドルを起用したケバケバシイ恋愛映画や淡い初恋物語が作品になっていました。この、『食べる女日日是好日』などは、エッセイや随筆的短編が原作となっています。エッセイを映画化するのは私など映画の新しい流れが始まているとしか思えませんーネ。この作品も筒井ともみのエッセイ的要素を持つ短編集『食べる女  決定版』が原作です。

エッセイを映画化するのは難しいと私は思います。エッセイにはストーリがないので、断片断片のエッセイストの心象風景と、それに付帯した視線に広がる流動的な情景から、映画のフィルムに「物語」らせるのは、あふる意味で自由度が高いと同時に、監督の心象と情景を接着するにぱとてつもないエネルギ―と想像力が必要とするのではないでしょうか…。

映画の冒頭で、多感な小学生が道路に蹲り、道路に耳を付けて道路の下に隠れた地下水脈の水の音に耳を澄ませている女の子の姿がありました。大地の奥深く流れる生命の音…は、人体と意識の深層とするならば食欲と性欲だろうか。

食べることとセックスは人の原初的で根源的な生存本能です。食べなければ生き続けられないし、セックスなしにホモサピエンスは絶滅していただろう。食欲と性欲は人間の生存を支えています。が、本能以上に長い文化さえも形作っているとも言えます。食欲と性欲は、人類の歴史の営みの中で人間らしさの輪郭線をも引いてます・・・。が、私は女性と性について経験を交えて語るほど経験豊富ではないので、あまり多くは語れませんーネ。さてさて、どのようにこの映画を三枚におろしてコメントを書こうかと…と迷っていました。今まで食べた食事の中で忘れられない味覚はー、四季折々の食材を生かした和食で舌鼓した包丁さばきの料理人はー、海外で食べた西洋料理のシェフが皿の上にせた絶品のメニューはー、或は、今まで私か愛撫した女性の肌の感触が手に残こる女はー、見知らぬ街で偶然に出会いその土地の訛りしか覚えてはいない忘れられない女ー、絶頂の快感を味わった肉体の惑溺をもう一度体験したい女・・・などと語るほど、豊穣な女性経験もしてませんからーネ。だから、とてもこんな「食べる女」についてコメントする含蓄のある言葉など持たないといってもいいです。

だから、他人の言葉を借りましょう。詩人のアポリネールピカソとも親交のあったフランスの女性画家・彫刻家であるマリー・ローランサンはこんな詩を残していました。

 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

この映画を見た私は、「男に忘れられた女は不幸です。が、
美味しい料理を味わえない女はもっと哀れです。…」と付け加えたいです。

小泉今日子沢尻エリカ前田敦子広瀬アリス鈴木京香山田優、 壇蜜、シャーロット・ケイト・フォックスら8人の女優陣が共演する。雑文筆家の餅月敦子役小泉今日子(トン子)は、古びた古書店「モチの家」の女主人で、彼女の元に一癖も二癖もある強烈な性格を持ち、料理をこよなく愛するキャリア女性たちが料理を囲んで夜な夜な集まってくる。一人は、トン子の編集者で男を寄せつけない小麦田圭子役の沢尻エリカ、(ドド)、一人は、彼女の飲み仲間でドラマ制作会社勤務の白子多実子役の前田敦子、男から肉体を求められると愛に溺れる古着屋店員の本津あかり役の広瀬アリス、一人は、中年女性のオーラを振りまく料理屋「ごはんや」の女将・鴨舌美冬役の鈴木京香たちが、美味しい料理を食べながら雑談をする食と性の楽しさを謳歌する映画です…。女性たちの世界観も随分広がったものですーネ。男を料理し、食べてしまう女の物語なのかな…???